「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

兄弟は手足、妻子は衣服?

ブログ『沈思翰藻』のこの記事を読んでちょっと興味を引かれたこと。
http://chugokubungaku.hatenablog.com/entry/2018/12/25/191500

三国志演義』に見える劉備の発言「兄弟は手足のごとく、妻子は衣服のごとし」に触れて、筆者は次のように言っている。

"なお劉備が言うところの古人の言「兄弟は手足のごとく、妻子は衣服のごとし」についての出典は定かではありません。「兄弟は左右の手の如し」(『晋書』邵続伝)、「兄弟は、手足なり。妻妾は、外舎の人なるのみ」(『宋史』張存伝)という例は見られように、兄弟を手足に喩えることは珍しくはないようですが、妻子を衣服に喩える例は確認できませんでした。ただ『宋史』の記述を見ると、妻よりも兄弟の方が身近な者であるという考え方はあったのかも知れません。"

これで思い出したのが、先日このブログでも一部を紹介した『詩経』の「谷風」。その中の「宴爾新昏、如兄如弟」という詩句だ。(https://anatadehanai.hatenablog.com/entry/2020/07/07/042506
詩経』は時代が古い上に象徴的な表現も多く、その本来の意味が推測しにくいものもあるのだが、この詩のこの部分に限って言えば、「あなたの新婚を楽しんで、新妻とまるで兄と弟のよう(に仲睦まじくしている)」という以外の読み方はほぼできないだろう。
新妻との仲の良さの形容として「まるで兄弟のようだ」というのは、少なくとも現在の日本語話者の感覚ではかなり違和感がある。しかし上の記事に書かれているように、「妻よりも兄弟の方が身近な者であるという考え方」が広くあったということなら理解できる。夫婦より兄弟の方が親密だ、という観念が前提にあるなら、親密な夫婦を「兄弟のようだ」と形容するのは不自然ではない。

「兄弟は手足のごとく、妻子は衣服のごとし」とはまたずいぶん直接的な表現だが、典型的な父系社会では、妻は所詮他家の者で子孫を得るために借りているだけ、といった観念がある。「子」まで衣服なのかと思うが、これも前に紹介した「六親」の解釈の中で、極端な例として妻も子も含まず、五代にわたる父系の兄弟のみを指す、とするものがあった。(https://anatadehanai.hatenablog.com/entry/2020/06/25/003655
こういう兄弟重視の観点で見ると、たとえ自分の子を失っても兄弟に子がいればその家族は問題なく続くように見える。実際、漢民族の伝統社会で行われていた「排行」は、父系兄弟の子どもたち、今の日本で言えば父方のいとこ関係にある子どもたちを一つのグループとして、上から順に数字をつけて呼ぶものだった。こういう習慣からも、夫婦より兄弟重視の家族観の一端がうかがえるかもしれない。

家族というものは何か普遍的なもののように語られやすいが、実際は時代や地域によって多様な形態をとり、また刻々と変化してもいる。私たちが今「普通」と思っているような家族の形も、当時はこういう家族観に多くの人々がとらわれていた、と歴史家に記述される日が来るだろう。それはむしろそうあってほしい。

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