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日々の学習、ときどき雑談

家族を守った肝っ玉姉ちゃん

「木蘭辞」についてもう少し。
今問題になっているディズニーの実写映画について、次のように触れている文章も読んだ。

「物語そのものも女性主人公の個人的な自己実現を重視した1998年のアニメ版と違って、共同体の防衛というナショナリズムを強めていると小耳にはさんでいる。」
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20200909/1599577200

筆者はこれに注として、「女性主人公の個人的な自己実現」については、

「これ自体がディズニーの外国文化の簒奪と軽視に思えて、当時から好ましく思えなかったが。」

と書き、また「共同体の防衛というナショナリズム」については、

「国外から攻めてくる異民族を撃退する原作を選んだ時点で、よほど映画の展開を改変しないかぎり、構造的にナショナリズムをくつがえすことは難しいとも思うが。」

と書いている。

私はムーランの映画やアニメはどれも見ていず、それについて語ることはできない。ただ、そもそもの原作となっている楽府の「木蘭辞」を読んだ直後の感想として、この原作にはたしかに「女性主人公の個人的な自己実現」という要素はなく、同時に、「共同体の防衛というナショナリズム」という要素も非常に薄い、あるいはほとんど存在しないのではないかと感じた。つまり、「女性の自己実現」の話にしてしまうのも原作から離れた大胆な改変だが、ナショナリズムに寄せるのも同じくらい原作軽視なのではないかと思う。
ではこの原作自体に強くある要素、主人公木蘭の行動原理となっているものとは何か。最も素朴に理解すると、それは親を守り、家族を守ろうとする意志だろう。これが国や民族ではなく家族であり、具体的な父親や兄弟姉妹であるというのが重要なところだ。そしてもう一つ重要なのは、この家族を直接的に脅かしたのは決して「国外から攻めてくる異民族」ではなく、自国の君主の徴兵だった、ということだ。
「木蘭辞」には、木蘭の家が異民族に襲撃されたとか、それに対して木蘭が怒りを抱いたとかいう記述は一切ない。そもそも、木蘭が何という国の軍隊に属して、何という国なり民族なりと戦ったのかが原文には明記されていない。戦争を描いているにもかかわらず、誰と誰が戦ったのかはっきりしないのだ。
かわりに、この詩は冒頭から「可汗大點兵」(王様が大規模な徴兵を行った)を木蘭とその一家に突然降りかかる災難として語る。家族もまた一つの共同体という意味では、木蘭の従軍は「共同体の防衛」と言えるかもしれない。しかしこの詩の中では、その家族という共同体と一貫して対立関係にあり、家族がそこからの防衛を迫られるのは、敵国や異民族そのものというより「可汗」つまり自国の王の権力である。自国の政府こそ最大の脅威、をこの詩はまさに地でいっている。
木蘭が男装して従軍するのは、父親を戦場に送りたくないからである。それ以外の動機は語られていない。従軍先では数々の勲功を立てたということなので兵士としてサボタージュしたりはしなかったようだが、一方でその戦功を木蘭が喜んだり誇ったりしたという記述もない。何より、王の前に出て木蘭の言う「不用尚書郎、愿馳千里足、送兒還故鄉」(尚書の位はいりません、千里馬を駆って私を故郷に帰してください)とは、木蘭の愛着と帰属の所在があくまでも故郷でありそこに暮らす家族であって、決して王や国、その「中央」をうたう都の官僚機構ではないということを鮮やかに示している。この場面は、他の伝説などで君主に金を積まれて妃になるよう迫られた女性が、自らの真情をもとにそれを拒絶する典型的な場面を連想させもする。王の権力と財力をもってしても動かせないものとして、木蘭の家族と故郷への思いが対置されているのだ。
家族や地域という自然発生的な共同体やそこへの愛着をいかに国への愛着に接続、転換するか、というのはいまだに国家を維持しようとする側の課題であり続けている。ナショナリズムの宣伝がしきりに血縁や地縁を強調するのは、そこをうまく接続できればきわめて強い帰属が得られるからであり、逆に言えば意識的に接続しようとしない限り、血縁や地縁の共同体は国家のような抽象的存在から遊離し、ともすると対立するような存在にもなりかねないからだ。
「木蘭辞」は、その国家単位のナショナリズムがこの辺境の少女に対しては無効であること、一庶民が家と国との対立において当然のように家を選ぶことを露呈してしまっている物語でもある。だいたい、現代のように国家が国民に対して一定の社会保障などを提供しているならまだしも、木蘭が生きたとされる時代の国家など、庶民にとっては一方的に税や兵役を課してくるばかりの迷惑な存在だっただろう。木蘭は従軍して勲功を立てたという点で表面的には国家に貢献した英雄のように見えるが、短い詩の原文から浮かび上がってくるのはむしろ辺境の庶民の素朴な反国家の心情や王権の横暴に対する怨嗟なのである。
ここに気づいてしまうと、「木蘭辞」はナショナリズムを鼓吹したい側にとってはなかなか厄介な題材に見えるかもしれない。それでもあえて「国家的」共同体の防衛というナショナリズムに引き寄せて木蘭の物語を語り直すとすれば、それはかなり大きな原作の改変であり、原作の思想の否定とすら言えるだろう。

またもう一つ、「木蘭辞」が現代の文脈で引き寄せられやすい主題にも触れておく。女性が男装して従軍し、女性と覚られないまま戦うというのはある種の性別越境であり、これは木蘭を古典の中の(自発的)トランスジェンダーとして扱いたいという誘惑になる。
ただこれも、原作を虚心に読んでみると、木蘭はやはり自分のことをあくまでも女性だと思っていて、男性になりたいと考えたりはしていないように読める。従軍前には機織りという典型的な女性の仕事に励む娘で、「男まさり」や「お転婆」だったというような設定も何もない。なにしろ、従軍から帰ってきてまずやるのが昔のスカートを取り出してはき、髪を整えて化粧することなのだ。男装して戦場を駆け回る方が自分には合ってた、もうこのまま暮らそうかな、などと感じるような人ではなかったということだろう。木蘭の男装は木蘭がそれ自体を望んでいたのではなく、あくまでも状況に適応するため、家族を守るという別の目的を達するための手段だったと読める。
私も一人のクィアとしては、主体的に性別の越境や流動化を試みるような人物を古典の中にも見つけて楽しみたいのだが、残念ながら木蘭はちょっとそういう例とは言えない。ただし木蘭自身の意図はともかく、衣装を変えるだけで性別を越境できるという物語の設定、さらに、そうして越境した女性主人公が男性以上の戦功を上げるという記述には、結果的に固定的な性別のイメージを揺り動かす力があったのは確かだと思う。

ということで、私はこの原作「木蘭辞」の物語を一言でまとめるなら、家族を守った肝っ玉姉ちゃんの話、というあたりがぴったりするのではないかと考える。
従軍したのは基本的に親のため、家のためなので、「女性の自己実現」は無理がある。国を守りたいとか民族の誇りとかそんなことも一切言っていないので、そういうナショナリズムに結びつけるのも無理がある。男装して戦いはしても、それまで特に女性役割を嫌っていたり、性別越境を望んでいたりしたわけではなさそうなので、そういう自発的トランスジェンダー物語として見るのも無理がある。
結局ちょっとつまらないところに落ち着いてしまうが、「木蘭辞」の木蘭は父親思い、家族思いの辺境の娘で、仕方なく男装して戦場に出たらめちゃくちゃ強かった、そして見事父親と家族を守り抜き、都会の誘惑にも目をくれず故郷に帰ってきた、そういう頼りになる「姉ちゃん」だった、というあたりが妥当ではないだろうか。

もちろん原作はそうであるとして、そこからあえて想像を膨らませ、原作とは違うさまざまな木蘭像を生み出していくのは別に悪いことではない。ただ、それがどういう方向に変化させられていくかはその時代と社会の引力の中で決まる。私たちが今見ている映画化をめぐる論争もそういう例の一つだ。

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