「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

茅屋為秋風所破歌(杜甫)

今日から明日にかけて台風が来るということで、大学の事務から注意の呼びかけがあった。先日も同じようなことが一度あったのだが、風も雨も私から見ると大したことはなく、ちょっと拍子抜けだった。西日本で毎日のようにゲリラ豪雨や台風に襲われる夏を経験してきた人間にとっては、こんなのどうってことないや、という感じである。しかも学生寮は頑丈な鉄筋の建物なので、風で壁がみしみし揺れるようなことはないし、窓を閉めれば音すらほとんど聞こえない。京都の木造アパートで酷暑や豪雨に耐えてきた身からすると、こちらの夏は全く平和で快適である。

しかしもちろん中国は広いので、南の方に行けばしばしば台風の被害を受ける地域もある。長い歴史の中では自然災害の記録も数知れず、古典の中にもよく現れる。
その中で、台風と言えば思い出される有名な詩を一つ。杜甫の「茅屋為秋風所破歌」(茅屋秋風の破る所と為る歌)。茅ぶきの家が秋の風に壊された歌、という題で自分の経験した災難をそのまま詩にしている。

茅屋為秋風所破歌

八月秋高風怒號,卷我屋上三重茅。茅飛渡江灑江郊,高者掛罥長林梢,下者飄轉沉塘坳。
南村群童欺我老無力,忍能對面為盜賊,公然抱茅入竹去。唇焦口燥呼不得,歸來倚杖自嘆息。
俄頃風定云墨色,秋天漠漠向昏黑。布衾多年冷似鐵,嬌兒惡臥踏里裂。床頭屋漏無干處,雨腳如麻未斷絕。自經喪亂少睡眠,長夜沾濕何由徹?
安得廣廈千萬間,大庇天下寒士俱歡顏,風雨不動安如山!嗚呼!何時眼前突兀見此屋,吾廬獨破受凍死亦足!
http://m.chinesewords.org/poetry/10603-80.html


(拼音)
《máo wū wéi qiū fēng suǒ pò gē》

bā yuè qiū gāo fēng nù háo ,
juàn wǒ wū shàng sān chóng máo 。
máo fēi dù jiāng sǎ jiāng jiāo ,
gāo zhě guà juàn cháng lín shāo ,
xià zhě piāo zhuǎn chén táng ào 。
nán cūn qún tóng qī wǒ lǎo wú lì ,
rěn néng duì miàn wéi dào zéi ,
gōng rán bào máo rù zhú qù 。
chún jiāo kǒu zào hū bù dé ,
guī lái yǐ zhàng zì tàn xī 。
é qǐng fēng dìng yún mò sè ,
qiū tiān mò mò xiàng hūn hè 。
bù qīn duō nián lěng sì tiě ,
jiāo ér è wò tà lǐ liè 。
chuáng tóu wū lòu wú gān chù ,
yǔ jiǎo rú má wèi duàn jué 。
zì jīng sāng luàn shǎo shuì mián ,
cháng yè zhān shī hé yóu chè ?
ān de guǎng shà qiān wàn jiān ,
dà bì tiān xià hán shì jù huān yán ,
fēng yǔ bù dòng ān rú shān !
wū hū !
hé shí yǎn qián tū wù xiàn cǐ wū ,
wú lú dú pò shòu dòng sǐ yì zú !

(訳)
八月の秋の高い空で、風が怒り叫び、我が家の屋根の三重の茅を巻き上げた。茅は川を越えて川辺の野原に降りそそぎ、高いものは林の梢にひっかかり、低いものはころころ転がって池の窪みに沈んだ。
南村の子どもらは私が年寄りで無力だとあなどり、無慈悲にも目の前で泥棒をはたらき、堂々と茅を抱えて竹やぶに逃げていく。口はからからに乾いて怒鳴ることもできず、家に帰り杖にもたれて溜息をつく。
そのうち風がおさまって雲は墨のような色、はてしない秋の空はもう暮れようとしている。何年も使ってきた麻布の夜具は鉄のように冷え切り、やんちゃな子どもは寝相が悪いので足で踏み破ってしまう。寝床の周りは雨漏りで乾いている場所もなく、ざあざあと降る雨はまだ途切れない。戦乱以来なかなか眠れないのに、長い夜を濡れそぼってどうして明かせよう。
どうにかして千万間もある広い建物を手に入れ、天下の貧しい士を覆ってともに笑い合い、風雨にも山のように動かない安定を得られないものか。ああ!いつの日か目の前にその家がそびえ立つのを見られるなら、私の小屋一つが壊れて凍死しようとも不満はないのだ。

(注)
秋高  秋の高い空。
江  川。ここでは当時の杜甫の住居に近かった錦江を指す。
掛罥(juàn)  「掛」も「罥」もかかるという意味。
長林  ここの「長」は高いこと。
塘坳  「塘」は池、「坳」はくぼみ。
忍  ここでは冷酷に、無慈悲に、容赦なく、といった意味。「忍耐」ではなく「残忍」の方の「忍」。
俄頃  まもなく、やがて、しばらくして。
漠漠  はるかに広がっている様子。
黑 hè  「黑」は現在の普通話での発音は hēi だが、昔は末尾に子音kがある入声(にっしょう)で、前句末の「色」と韻を踏んでいた。その押韻を崩さないように、「色 sè」に合わせて習慣的に hè と読まれているようである。普通話で古典を朗読する時には、こうして押韻のために発音を変えることが時々ある。ちなみに、こういう古い音の影響は周辺地域に残っていることが多く、たとえば日本語では色(しょく)、黒(こく)とk音がある上、今でもそのまま韻を踏んでいる。
嬌兒  やんちゃな子ども。
惡臥  寝相が悪いこと。
踏里裂  布団の中(裏地)を踏んで裂ける。ただし、鈴木虎雄・黒川洋一訳注の『杜詩』では、「ふみつけるあいだにひきさける」と注があり、微妙に解釈が違う。
如麻  麻のように密集している様子。
喪亂  戦乱。ここでは安史の乱を指す。
千萬間  「間」は柱と柱の間。非常に広いこと。
寒士  「寒」は貧しいこと。「士」は読書人の男性。文脈からいって、もっと広く「貧しい人々」という指向はあるだろうが、しかし「士」という語の本来の意味があらゆる人間を含むわけではないことも意識すべきだと思う。
突兀  そびえ立つ様子。
见 xiàn  ここでは「現」の意味で、現れる。音もjiànではなくxiànと読む。
廬  いおり。粗末な家。

この作品、大学の講読を聞いた時、先生が「漫画的」「ユーモラス」という言葉で評していたのを覚えている。最後のいきなり天下国家に飛躍する発想も、杜甫はそれなりに本気だったのだとは思うが、それまでの部分で自嘲的に描かれている貧乏知識人の実生活に接続されると、何とも言えないおかしみというか、人間臭さのようなものを帯びてくる。台風で屋根を吹き飛ばされ、近所の悪童に馬鹿にされ、子どもに布団を蹴破られてさんざんな目に遭いながら、それを詩にした上、ついつい興奮して天下国家を論じてしまう知識人の性。たいして冴えない生活を送りながらネットの書き込みに熱中してしまうような人なら、共感できるところもあるのではないだろうか。
まあ、杜甫の生きた社会では天下国家を論じるのは読み書きを学んだような一握りの「士」の特権だったのに対し、民主制の社会では基本的にあらゆる市民の義務である、というのが大きく違うのだけれど。