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日々の学習、ときどき雑談

抗日战争胜利纪念日

今日、9月3日は中国の「抗日战争胜利纪念日」ということで、ネットでもいろいろと関連ニュースが流れていた。習近平も談話を発表している。75周年。
日本では「終戦記念日」といえば8月15日だが、中国では日本が降伏文書に調印した9月2日に基づいて、翌日の9月3日が戦勝記念日となっている。しかし初めからそうだったというわけでもないようで、百度百科の解説を見ると、正式に議決されたのは2014年の全人代常務委員会だとのこと。

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では8月15日はどういう扱いかというと、「日本无条件投降日」ということで項目は立てられているが、国内で今日ほど強調されていた感じはしない。

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と、見ていたらwikipediaに簡潔な解説があった。アメリカでは9月2日、旧ソ連や中国では9月3日だとのこと。同じ戦争の参戦国でも、こういう記念日が少しずつ違うのは興味深い。

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私は日本のナショナリズムも中国のナショナリズムも好きではないので、勝利であれ敗北であれ、戦争というものを国家の視点で見ること自体を警戒したいと思っている。私たちのほとんどは国家を指導するような立場にはなく、むしろ、国家の野望や失策に翻弄され、生命の危険にすらさらされる民衆の一人だ。その目で見る時、国家の視点に自分を重ねて敗北や勝利を語ること自体が危うい。一人の民衆にとって直接的に危険なのは、他国の攻撃よりもしばしば自国の失政なのだ。
しかし一つの前提として、過去の日本が中国に行ったのは明らかな侵略戦争であり、そこで日本は数えきれないほどの人を殺し、数えきれないほどの町や村を壊し、数えきれないほどの人生を狂わせた。それは日本の被害に比べても、数倍、十数倍の膨大なものだった。これは事実であって否定することはできない。否定しようとする動きを許してもならない。
過去の事実を直視して否定せず、自国のナショナリズムにとらわれず、どこの国に生まれ合わせても戦争によって生活を破壊されかねない「民衆」の一人として、今も続く国家の暴力を監視していく。そういう姿勢を心がけながら、国家が戦争を語る日は過ごしたいと思う。