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日々の学習、ときどき雑談

叶公好龙

叶公好龙 [ yè(shè) gōng hào lóng ]

葉公龍を好む。何かを好んでいるように言うが、真に好んでいるわけではないこと。口だけで実行が伴わないこと。

葉公の「葉」は伝統的にはshèと読み、日本の漢文でも「しょう」と読まれてきた。現在の中国では基本的にyèと読ませる方針のようで、百度百科などではyè gōng hào lóngと記載した上で(叶,现读yè,旧读shè)と付記されている。

出典
漢の劉向の『新序』雑事より。
まず直接の出所となっている説話はこれ。

(原文)
葉公子高好龍,鉤以寫龍,鑿以寫龍,屋室雕文以寫龍,於是天龍聞而下之,窺頭於牖,施尾於堂,葉公見之,棄而還走,失其魂魄,五色無主。是葉公非好龍也,好夫似龍而非龍者也。

(訳)
葉公子高は龍を好み、帯留めに龍を描き、盃に龍を描き、屋敷の飾り彫りにも龍を描いていた。それを天の龍が聞きつけ、天から下って窓から覗き込み、奥座敷に尾を伸ばした。すると葉公は見た途端背を向けて逃げ出し、怯えて魂が抜けたよう、顔色も定まらぬありさまだった。これは葉公が龍を好んでいたのではなく、龍に似て非なるものを好んでいたということだ。

(注)
葉公  春秋時代、楚の国の政治家。沈諸梁(shěn zhū liáng しん しょりょう)、字は子高。葉県(現在の河南省葉県)の長官をしていたので「葉公」と呼ばれる。
鉤  帯鉤(たいこう)。古代中国で帯を留めるために使った道具。
寫  描く。
鑿 záo  注によれば「爵」に通じるとのことで、古代の酒器。(これ、「爵」に通じるなら音もjuéと読むべきだと思うが、ネットに出回っている朗読をいくつか聞いた限りではzáoと読んでいたのでひとまずそう読んでおく。)
牖 yǒu  窓。
施 yì  普通はshīと読むが、ここではyìと読み、伸ばす、伸びるという意味。
堂  奥座敷。屋敷の奥にある主人の居室。
還 xuán  ここの「還」は「旋」に通じるとのことで、向きを変える。音もxuánと読む。
走  逃げる。
五色無主  この「色」は顔色。「無主」とは中心となるものがない、定まらないということ。

注、訳は下記のリンク先を参照した。
https://fanti.dugushici.com/ancient_proses/70488/prose_translations/3135

f:id:anatadehanai:20200731031147j:plain
帯鉤(この写真は北京故宮博物院に所蔵されている戦国時代のもの)

しかしこの物語にはさらに前後がある。子張が魯の哀公に会いに行ったという話の中の、子張の言葉にあるたとえ話が上の部分なのである。

(原文)
子張見魯哀公,七日而哀公不禮。託僕夫而去,曰:「臣聞君好士,故不遠千里之外,犯霜露,冒塵垢,百舍重趼,不敢休息,以見君。七日而君不禮,君之好士也,有似葉公子高之好龍也。葉公子高好龍,鉤以寫龍,鑿以寫龍,屋室雕文以寫龍,於是天龍聞而下之,窺頭於牖,拖尾於堂,葉公見之,棄而還走,失其魂魄,五色無主。是葉公非好龍也,好夫似龍而非龍者也。今臣聞君好士,故不遠千里之外,以見君,七日不禮,君非好士也,好夫似士而非士者也。」

(訳)
子張が魯の哀公に会いに行ったが、七日経っても哀公は応対してくれない。そこで子張は下僕にこう伝言させた。「私は殿が士を好むと聞き、千里を遠しとせず、露霜、塵芥にまみれ、百舎の道に足は豆だらけとなりながら、休む間も惜しんで殿のもとへ参りました。ところが殿は七日も出てきてくださらぬ。殿の士を好むとは、葉公子高の龍を好むに似ておりますな。葉公子高は龍を好み、帯留めに龍を描き、盃に龍を描き、屋敷の飾り彫りにも龍を描いておりました。それを天の龍が聞きつけ、天から下って窓から覗き込み、奥座敷に尾を伸ばしたところ、これを見た葉公は背を向けて逃げ出し、怯えて魂が抜けたよう、顔色も定まらぬありさまでした。これは葉公が龍を好んでいたのではなく、龍に似て非なるものを好んでいたということでございます。今私が殿が士を好むと聞き、千里を遠しとせず参上したところ、殿が七日も出てきてくださらぬのは、殿が士を好むのではなく、士に似て非なるものを好んでおられるということでございましょう。」

(注)
百舍重趼 bǎi shè chóng jiǎn  「舍」は距離の単位で、30里で1舍。古代の1里が約400mほど(日本の1里は約4kmで十倍の差があるので注意!)と言われているので、単純計算すれば百舍は1200kmか。ただしもちろん、こういう場合には正確な距離を言っているのではなく、「非常に長い道のり」という意味である。「趼」は皮膚にできる豆、たこ。「茧」とも書く。百舍の道のりを歩いて足にたこが何度もできた、ということ。
「百舍重趼」はこれで一つの成語にもなっている。『莊子』に「吾固不辞遠道而来願見,百舎重趼而不敢息」とあり、他の文献にもよく似た言い回しが多く見られる。こういう遠方から人を訪ねて行った際の定型表現だったのだろう。


この説話、教訓はともかく、龍マニアで家中龍グッズだらけにしてしまう葉公とか、家にやってきて窓から覗き込む龍とか、想像するとなんだか視覚的に楽しい。ユーモラスでよくできた説話だと思う。

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