「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

逞 [chěng]

百度百科の辞書によれば、

1. 显示,施展,炫耀,卖弄:~能。~强。~凶。~威风。
2. 意愿实现,称心:~志。~吾愿。不~之徒(因私欲得不到满足而为非作歹,捣乱闹事的人)。
3. 放任:~性。骄~。

1は見せびらかす、ひけらかす。2は願いがかなう、満足する。3は2と重なるような気もするが、思いのままにする、欲望に任せるというような意味。

日本語では「たくましい」と読んで体格が立派だったり力が強かったりすることを表すのに使うが、そういう意味は見当たらない。そもそも基本的に形容詞ではなく動詞的な意味で熟語を作っている文字と言える。
日本語にも「想像を逞しくする」といった表現が残っているが、この「逞しくする」は中国での用法に近いと言えるだろう。それがなぜ「体が強い」というような意味になってしまったのか、まあいろいろあったのだろうけれど。
「不逞の徒」というような言葉(これは中国の古典に基づく歴史のある言葉)も日本語には入っていて、これを日本語の「逞しい」の意味で読めば「逞しくないやつ」、弱いのか?というようなことになってしまいそうだが、これはこれできちんと「反逆者」「生意気な連中」といった意味で理解されているので、人間は柔軟なものだなと思う。逆に言えば、自然言語は少々論理がねじれていても通用すれば勝ちというのがよくわかる。
しかし「不逞」の語で思い出すのはどうしても「不逞鮮人」というような言葉を作って差別や迫害に使っていた日本の近代の恥ずべき歴史だし、そもそも古典時代から統治者目線で「満足しない連中」→「不平分子」→「暴徒ども」というような意味で使われてきたらしいこの言葉は、やはり鄭重に解説を付した上で博物館に収めるべきものではあるだろう。
あ、でも、その時にはこの差別的な言葉を逆手に取り、「太え鮮人」と名乗って雑誌を作ったりした朴烈と金子ふみ子のような人たちのことを忘れてはいけない。というより、人間を傷つけてきた言葉を単に消すのではなく歴史として葬る意味があるとすれば、それは古い言葉にはこういう抵抗の歴史が、幾重もの血痕のように纏いついているものだからだ。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村