「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

「中国式教育」というなら「日本式教育」も

ずいぶん昔(11年前)のものですが、黒色中国さんの下記の文章を目にして私が思ったことを書いてみます。

http://bci.hatenablog.com/entry/2009/10/08/000000

ちなみに、「中国人のノーベル賞受賞」の状況は当時と現在の間でも大きく変わっていて、ノーベル文学賞も2012年には莫言が中国内から受賞を果たしています。しかし私が今取り上げたいのはノーベル賞の問題ではないので、そのあたりの事情には触れません。

まず、黒色中国さんが経験したという「中国式教育」の例ですが、個人の体験として興味深いものの、現在やはり中国内で中国の先生の授業を受けている者として、今でも、またどこでも中国の教育はこんな感じだと日本で思われるとまずいのではと感じました。私自身の経験や印象はかなり違うからです。
たとえば私も前学期に、日記を書いて中国人の先生に添削してもらうということをしていました。その中で老舎の『駱駝祥子』の感想を書いて読んでもらったことがあります。中国語で書くからといって特に内容を変えることもなく、思ったことをあれこれと書きました。たとえば『駱駝祥子』には、祥子という主人公の周りに虎妞というやり手の年上の女性と、小福子という不運に翻弄される少女が登場人物として現れます。虎妞は強引に策まで弄して祥子の押しかけ女房になるのですが、難産で死んでしまいます。小福子は貧しい家族のために自己犠牲を重ねる少女(『罪と罰』のソーニャのような)で、祥子は共感から一緒に暮らすことを夢見ますが、結局その夢は実らず、小福子は身売り先の娼館で死んでしまいます。この女性たちの描かれ方について、私はたとえばこんなことを書きました。
私から見ると虎妞というのは自分の意志を持つ有能な人物に見えるが、祥子は年上で醜いというだけで虎妞を嫌っているようだ。確かに祥子を酒に酔わせて強引に迫ったり、妊娠を騙って結婚に持ち込む虎妞もひどいのではあるが、それで結婚したらちゃっかり一緒に寝ている(虎妞が本当に妊娠したというのはそういうことだ)祥子の方もどうなのか。しかし作品の中では祥子の目を通して虎妞の「悪女」ぶりや醜さが強調され、それに対して小福子のようなひたすら受動的な女性が同情的に描かれる。そこにはやはり老舎の女性観というものが反映されているのではないか。時代を考えるとやむをえないものの、私は率直に言って男性作家のそういう女性観は嫌いである。しかし面白いのは、作者の価値観がそうだったとしても、登場人物としては「悪女」の虎妞の方がはるかに存在感があり、典型的な「聖女」の小福子より生き生きと血が通って見えることだ。こういうことが起きるのが文学の魅力というものだろう。……
他にもいろいろ書きましたが、まあこんな感じで好き勝手に書いたところ、先生はそれに「你是一个很有想法的人」とコメントをくれ、あなたの日記は面白いからどんどん書いてよ、私にも勉強になる、というようなことを言ってくれました。「有想法」というのは、独自の考えを持っている、面白い意見を持っている、といった感じでしょうか。こういうコメントをもらえて私も嬉しかったのを覚えています。
この先生は30歳くらいのおしゃれで元気な感じの人で、「DINKSです!」と自己紹介し、ドバイに旅行して宮殿のような所に泊まった経験を楽しそうに話してくれました。来年のヨーロッパ旅行に向けて準備中と言っていたのに、今はコロナ流行でキャンセルになっていそうなのが気の毒。この人が突然豹変して黒色中国さんの先生のようなことを言い出すというのはちょっと想像できない感じです。
総じて私の個人的体験としては、中国で受けた語学の授業に日本と大きく異なる「中国式」の要素を感じることはほとんどありませんでした。むしろ拍子抜けするくらい普通の、言語が違うだけで日本にもいそうな先生たちと、世界中で行われていそうな授業法という印象です。
もちろん私の経験も広い中国のほんの一点、それも一学期間のものに過ぎず、これを一般化して「中国は〜〜」と言うつもりは毛頭ありません。時代、地域、留学先の校風、語学留学生か本科生か、そしてたまたま出会った先生の立場や性格など、経験を左右する要素はいくらでもあるでしょう。しかし全体として、黒色中国さんが受けたような指導に、それも留学生が出くわす可能性は現在ではかなり低いのではないかと思います。黒色中国さんが中国で学んだ正確な時期や場所はわかりませんが、11年前の文章のさらに昔ということで20年くらいは前の話でしょう。その頃の20代と今の20代ではまた一世代くらい違います。現在教壇に立っている若い教師はすでに改革開放後に生まれた世代です。政府の方針だけでなく、自分たちが受けた教育や時代経験もその上の世代とは大きく違うでしょう。この数十年、特に改革開放後の経済発展による中国社会の変化は非常に速く、人々の観念や感覚も刻々と変化しています。他の国でも何でもそうですが、中国の外で中国のことを語る時には、そういう現実の変化に敏感に、時代遅れの固定観念で語ってしまわないように注意する必要があると思います。(黒色中国さんはその意味では自ら体験した等身大の中国を機敏に日本の読者に伝えてくれているので、これを黒色中国さんに言うのは釈迦に説法ですね。あくまでも一般論、そして自戒として言っています。)

また少し意地悪な見方をすると、黒色中国さんが魯迅の『孔乙己』をめぐって中国の先生にぶつけた意見というのが、これはこれで日本の教育における模範解答的なもの、つまり別のイデオロギー性を帯びているものなのではないか、と私には見えます。

「この作品は清代から民国への時代の転換期を背景に、社会変化に翻弄され零落する人物をとりあげて、そこに人間の悲哀を描き出すのが主題であるが、同時にその当時の中国民衆の生活や風俗・文化なども記録しており、優れた文学作品であると思う。」

本の学校で「国語教育」を受け、日本の一般的な文学の語られ方に慣れてきた者にとっては、全く違和感のないよくできた紹介文ではないでしょうか。私も「国語」が得意でその教育によく適応した学生だったので、その感覚はよくわかります。しかし今の私は、こういう「人間の悲哀」のようなものをキーワードにして文学作品を読む読み方、作品の政治性や社会背景に対する意識的、無意識的な軽視という傾向に、非常に日本的というか日本社会のイデオロギー的なものを感じるようになっています。
この黒色中国さんの経験を読んで、私はちょうどこの逆のような経験を日本の高校でしたことを思い出しました。もう細かくは覚えていないのですが、高校の教科書に載っていたやはり魯迅の『故郷』について感想を提出したところ、担当だった若い国語教師に反論されたことがあるのです。その時自分が何を書いたのかもほとんど忘れているのですが、その教師が「魯迅はこの作品で社会を変えろとか、革命を起こせとか言っているわけじゃないんだ!」と言ったのは耳に残っています。私の方はおそらく「左翼」(この含意を説明し始めるとまた長くなるので、ここでは世間で「左翼」と言われているような思想傾向という意味で括弧つきで使います)になりかけた頃で、『故郷』から階級社会の残酷さのようなものを読み取り、そういう社会に絶望しつつも未来の世代に希望を託す作者、といった要素を前面に出して感想を書いたのではなかったかと思います。
この感想については、私は今思い出してもそれほど的外れだとは思いません。『故郷』のテーマの一つが子ども時代の生き生きとした融和的な世界、他の子どもや動物、自然との対等な交流の描写だとすれば、もう一つのテーマはその世界を引き裂く大人の社会、つまり階級で隔てられている社会を浮き彫りにすることです。「人間の悲哀」というような風呂敷言葉に包めばそれはどんな悲哀も「人間の悲哀」となるでしょうが、再会した幼馴染みに「だんなさま」と呼ばれてしまう悲哀はどう見ても「人間」に普遍的なものなどではなく、そのはるか手前で特定の階級社会がもたらしている悲哀でしょう。
魯迅は社会を変えろと言っているわけではない」というのをその教師がどういう意図で言ったのかは、それ以上詳しく聞かなかったのでわかりません。「革命」については、魯迅は確かに複雑な人物なので、単純に「革命で万事解決」などとは考えていなかったでしょう。しかし「社会を変えろ」とは考えていたはずだ、とその後多少知識の増えた今になっても私はやはり思います。もちろん、『故郷』という作品がその主張だけに収斂するものではないというのも文学作品の読み方として正当なものです。小説は政治演説ではないので。しかし間接的にであれ社会を問い、その変化を期待する作者の姿勢を小説作品から読み取ることがそれほど否定されたり忌避されたりすべきこととも思えません。

黒色中国さんは、「文学」について次のように言います。

「文学は人間について追求するものであって、『社会矛盾』を指摘するのは社会科学の範囲である。それは小説ではなくて、論文でやることではないか」

私は大学での専攻は文学ですし、文学についてはある程度学んだり考えたりしてきた人間だと思います。その結果として、現在「文学」と「社会科学」とはこんなふうにわかりやすく分離できるものではないと考えています。
高校までの「国語」はともかく、大学で行われるような文学研究では、それぞれの作品がつくられた時代、社会の背景を知ることはもちろん、その作品がどのように流通したのか、どのような読者に読まれたのかといったある種「社会科学」的な視点がますます重要になっています。私は大学に入ってからそういう視点に多く触れ、それまでの漠然と「作者に共感する」「美しさを味わう」といった文学鑑賞とは大きく異なる文学との向き合い方に強く刺激を受けました。
文学は人間を追求するもの、と定義したとしても、その人間はそれぞれ特定の社会の中に生きていて、そこを離れては存在しえません。そもそも文学作品は主に言語でつくられるものですが、言語は複数の人間が交流する場、つまり社会でこそ生まれるものです。社会の産物としての言語で文学を生み、文学について語るのであれば、社会そのものもまた文学研究の対象に含まれるのはきわめて自然なことなのです。
もちろん、あまりに単純化された「階級視点」の導入のようなものが文学の研究にも社会の研究にもマイナスになる局面というのはあるでしょう。中国を含め「社会主義」が国家の思想となってしまった国々は、それを何度もいやというほど味わってきているはずです。
しかし「東側」諸国のその状況にイデオロギーを見て取る「西側」諸国が自身を無色透明で自由だと錯覚している限り、私はその認識も全く信頼できません。中国の教育に独特の偏りがあるように、日本の教育にもまた別の偏りがあります。(それは少しずつ影響を与えあい、縒り合わせればちょうどよくなるようなものかもしれません。)偏りのない教育はなく、何らかのイデオロギーに染まっていない社会は世界のどこにもありません。私たちにできるのはただ、自分の属する社会とは違う社会に関心を向け、内部からは見えにくい自分の社会のイデオロギーに自覚的になろうとすることだけです。

黒色中国さんの「中国式教育」への視線は、それが同じように「日本式教育」へも向けられていないという点で私には物足りなく、さらにそれを中国全体、さらにノーベル賞を受賞しにくい理由にまで結びつけるのは無理があると感じられました。面白い記事をしばしば読ませてもらっているだけに残念に感じ、ずいぶんと古い記事に思わず長い感想を書いてしまった次第です。この文章を目にする人がどのくらいいるのかもわかりませんが、こういう中国留学体験やこういう考え方もありますよ、ということで公開しておきます。