「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

荠菜

荠菜[ jì cài ]

中国の街を歩いていると、時々「荠菜」を使った料理の看板に出会う。私が最初に見たのは南京の「荠菜馄饨」。その店の名物のようだったので、とりあえず発音を調べて頼んでみた。出てきた馄饨は具がたっぷり入り出汁がきいていておいしかったが、「荠菜」特有の味というのはよくわからなかった。具には「荠菜」らしき濃い緑色がたくさん混じっているのだが、それほど癖の強い野菜ではなさそうだ。
その後調べてみたところ、「荠菜」とはつまり以下のような植物。

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百度で検索すると、生えているところの写真の他に、籠に盛られたり束ねてあったりする食べ物らしい姿のものがたくさん出てくる。日本語では「ナズナ」だが、「ナズナ」を検索しても花の写真がほとんどなので、このあたりにも認識の違いが現れている。ナズナは日本でも春の七草の一つとして食べられるのだが、現代では食べ物という印象は薄いだろう。一方中国ではナズナは野菜の一種として定着していて、栽培もされているらしい。

「荠菜」と書かれると珍しく感じるが、「荠」は「薺」だとわかると、ある古典を思い出す。そう言えば、薺の出てくる有名な詩があった。

行道遲遲、中心有違。
不遠伊邇、薄送我畿。
誰謂荼苦、其甘如薺。
宴爾新昏、如兄如弟。

中国最古の詩集とされる『詩経』に収められている「谷風」という詩の一節だ。『詩経』ほど古いものになると、今では当時の意味がわからなくなっている部分もあるが、それぞれの詩のおおまかな意味は伝えられ、読み解かれている。たとえば「谷風」は、夫が新しい妻を娶ったために家を追われる元の妻がその恨みを歌ったものとされる。
上の一節、現代中国語訳を検索すると次のようなものが見つかる。

出門行路慢慢走, 心中滿懷怨和愁。 路途不遠不相送, 只到門前就止步。
誰說苦菜味道苦, 和我相比甜如薺。 你們新婚樂融融, 親熱相待如弟兄。
https://fanyi.cool/3753.html

迈步出门慢腾腾,脚儿移动心不忍。不求送远求送近,哪知仅送到房门。谁说苦菜味最苦,在我看来甜如荠。你们新婚多快乐,亲兄亲妹不能比。
https://m.gushiwen.org/mingju/juv_0350007492f8.aspx


道行く足も進みかね、心をふさぐこのいたみ。遠い道でもあるまいに、戸口の先は一人旅。誰が苦菜を苦いと言う、この私には薺の甘さ。お前はお前の新妻と、はらからのような睦まじさ。

つい七五調で訳してしまったが、意味重視で訳し直すと、「足取りも重くなかなか道が進まない。心の中は苦しみでいっぱい。たいして遠い道でもないのに、門までしか送ってもらえなかった。苦菜がなんで苦いものか、薺のように甘いではないか。おまえは新しい妻を喜び、兄弟のように仲睦まじくしている。」
薺が出てくる「誰謂荼苦、其甘如薺」の部分は、誰が荼(日本の音読みでは「ト」、現代普通話の音では tú )を苦いというのか(反語)、その甘さは薺のようだ、ということ。つまり荼の苦さを隠喩として、私が感じている心の苦しさは荼よりもはるかに苦い、と言っている。そしてその強調のために、甘い(うまい)ものの代表として持ち出されるのが薺だ。
ここからわかるのは、ナズナが『詩経』の時代から中国で食べられていたこと、美味なものとして認識されていたことだ。『詩経』に収められた個々の詩の成立年代は確定できないが、古いものは紀元前11世紀頃にまで遡るといわれる。その頃の栽培植物は今のような品種改良を経たものではなく、全体に野生に近かっただろう。その中で、癖がなく柔らかい野草のナズナが美味なものと認識されたのは不思議ではない。しかし、それが今もほとんど姿を変えず、他の改良された野菜たちに駆逐されることもなく、いまだに中国の食文化の一角に留まっていることを思うと、ちょっとした奇跡のように感じられてもくる。

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