「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

「道徳教育」の厄介な普遍性

「権利には義務が伴う。義務を果たさない人には権利を主張する資格はない。」

「自由は無制限なものではない。それぞれが勝手に自由を主張すると社会が混乱するので、自由はあくまでも全体の利益を損なわないように制限されなければいけない。」

「私たちの国は「和」を尊んできた歴史をもつ。いろいろな人が住んでいるが、融和して一つの民族としての自覚を持つべきだ。」

「自分の国や民族に誇りをもつことは大切だ。自分の国にアイデンティティを持っていないと、思想が動揺しやすく、しっかりした人間になれない。」

なんかすごく見覚えがあるんですけど、これは中国の大学一年生が中学や高校の「政治」の授業で習ったと言っていたこと。(うまく聞き取れなかったところや記憶があいまいなところもあるので一言一句この通りというわけでは全くないです。だいたいこんな感じ、ということで。)

見覚えがあるというのは、日本の保守派がやりたがったり実際にやったりしている「道徳教育」の内容と瓜二つだからですね。
「我が国は古来「和」を尊び……」とか同じすぎて笑ってしまう。もちろんオリジナルは中国大陸の方で、日本の「和」はそもそも輸入語ですが。その意味では日本の保守派が中華文明由来の漢字語を使って「我が国の伝統」とか言ってるのはパクリでずるい。

これをもって中国がひどいとか日本がひどいとか言いたいのではなく、つくづく感じてしまったのは、国家を維持しようとする立場の大人が「道徳教育」的なことを若者に施そうとしたら、割とどこの国でもこんな感じになってしまうのではないか、ということ。
アメリカとかヨーロッパとかその他地域とかでも、ある程度安定した国民国家ができていて、その中で保守的な立場にある人に価値観を語らせたら、多少表現は違っても似たようなことを言いそうな気がする。元教師ですっかり保守化している私の親がメールで送ってくる説教もほぼこんな感じ。
「いい年して反抗期」とか嗤われながらもこういう教育に反発してしまううまく大人になれなかった人間としては、こういう言説が現に持っている「普遍性」に唸りつつ、どういう対抗の可能性があるのか、どういう言葉がこれを超える普遍性と説得力を持ちうるのかをあらためて考えたい。

ちなみに話してくれた人は、特にそれに反発したりはせず、そのまま自分の価値観にしている感じでした。真面目だなあ。


追記
中国は多民族国家なのになぜ「一つの民族」?というのは、「中華民族」という概念があるからです。民族は多数あるが現在中国に属している民族は全部まとめて「中華民族」、という考え方を現在の中国政府は推しています。どうしてそこで「民族」にするのか、「民族は違えど一つの国民」という「民族」と「国民」の二段構造ではだめなのか、その方が無理がなさそうなのに、というのはよくわからないところですが、やはり統治者目線からすると、「一つの民族」という幻想は喉から手が出るほどほしいものなのかなとも思います。