「中国語」とか、「漢文」とか

日々の学習、ときどき雑談

高考2日目

中国では昨日と今日が「高考」、全国共通の大学入試で、ニュースはもっぱらその話題。高考は例年6月だが、今年は新型コロナの影響で延期されたとのこと。
受験生にとっては一大事なのだが、運の悪い人というのは必ずいるもので、安徽省のあたりでは折からの暴雨で道路が冠水し、会場にたどりつけない受験生が多数出たらしい。ただしこういう場合は日程が延期されたり、追試が行われたりと救済措置があるようだ。個人的に風邪を引いたとかが救済もなく一番不運だろうな。中国の高考は夏なのでまだましかもしれないが、日本の大学入試は真冬の一番寒い時期なので、「風邪で熱を出して失敗した」というのは定番のエピソード。

私は客観的には受験に失敗していないし、なんだかんだで受験制度や学歴の恩恵を被ってきているので私が言っても説得力に欠けるのだろうが、やはりどう考えても、十代の試験の成績でその後の人生が大きく変わってしまうようなシステムはおかしい。学歴というものが単に何を学んだかの記録ではなく、「良い職」を得るための身分証のようなものになってしまっているのもおかしい。だいたい、大学というところは同じような年頃の、高校を出たばかりの若者を集めなければいけないものだろうか。理想を言うなら、大学とはさまざまな知識や研究環境を社会資源としてストックし、広く市民に開かれてその必要と関心に応えるべきものだろう。たまたま大学受験を目指すような環境と資質に恵まれた若者だけに開かれ、その若者の将来の収入や地位の向上に奉仕するだけなら、それは公共性のある機関とはいえない。

受験制度、特に筆記試験による選別というのは一見平等で、出自などに関係なく受験生の能力や努力を反映しているように見える。たしかにそういう面がないわけではなく、またそれを信じて取り組む個々の受験生の真摯さを否定したいわけでもない。しかし現実を言うなら、その試験場にたどりつくはるか以前に、すでに選別は行われている。
そもそも大学に行くという発想が周囲にない環境で育てば、大半の子どもは大学受験に強い意欲を持たないだろう。意欲があっても、経済的理由やその他の事情で準備が妨げられることはいくらでもある。子どもを「良い大学」に入れるために虐待まがいのことをする家庭がある一方で、大学になんか行くな、それよりも早く働け、と怒鳴りつける親がいる。行ってもいいが県外はだめだ、そんな学部に行くなら金は出さない、などあれこれ条件がつくこともある。ここにはしばしばジェンダーもからみ、「女の子が大学まで行かなくても」「女の子なら短大で十分」「女の子を下宿させるなんて」などなど程度の差はあれ男女差別が顔を出す。
今でも時々思い出すが、私が松山の小学校にいた時の友達は、その頃から「お兄ちゃんは大学に行くけど、私はたぶん短大まで」と言っていた。親にそう言われていたのだろう。その後知ったところでは、実際に地元の女子短大の秘書科(そういう学科があるということも私は知らなかった)に特待生で入り、成績優秀で何度も表彰され、卒業後は地元企業に就職していた。何をやらせても器用な人で、私のような環境で育てられれば当然のように東京かどこかの名の知れた大学に入り、何かの分野で活躍し、かなりの高収入(結婚するかしないか、どういう相手を選ぶかについて経済的問題を考慮しなくていいくらいの)を得ていたのではないか。絵を描くのが好きで小学生の時の夢は画家だったから、美術系の道に進んでいたかもしれない。そっちの方が幸せだとか、地元で生きていくのが間違いだとか言いたいのではないが、そういう選択肢がその子には十分に与えられなかった、とは言えると思う。
かといって勉強を奨励される男子が幸せということにもならず、私の高校に何人もいた「勉強が好きでもないが親が医者なので医学部に行かなければいけない」息子たちの憂鬱そうな表情を思い出すとあらためて人間という存在にうんざりする。私自身、教育や進学に関して「女の子だから」と制限をかけられなかったことは差別主義右翼の母親に感謝できる数少ないポイントではあるものの、「あんたは勉強ができそうだから勉強させてみた、そっちがだめなら愛嬌よく育てて玉の輿に乗せるつもりだった」と面と向かって得々と言われた時は不快きわまりなかった。子どもは作品、子どもの人生は自分が設計できる、という意識丸出しである。それを本人の前で平然と言えるくらい、自他の距離感が狂ってもいる。勉強させるにしてもさせないにしても、子ども自身の意思より親や家の意思が先行しているのは醜悪だ。しかし残念ながら、まだまだこういう親は「普通」である。

私について言えば、大学進学は家と親を離れる手段になったという点で絶大な意義を持った。大学に行かず、あるいは家から通える大学に進学して、あのまま広島で親と暮らし続けていたらどうなっていたか、どれほど狭い世界に囚われたままだったか、ちょっと想像もできない。物理的距離とは偉大なもので、広島と京都くらいに離れると、いかに私が母親製造ロボットといえどもリモコンの効きが悪くなる。それでも最初はかなり効いていて、電話で指示されれば従わなければいけないような強迫観念があったが、それも数か月でほぼ抜けた。こじれた人間関係を整理するのに心理的距離という言葉があるが、物理的距離なくして心理的距離なし、と言い切りたいくらい私が唯物論者なのはこの経験によっている。もちろん個人の経験なので誰にでもあてはまるとは言えない。ご自身の問題は専門家に相談を。でも、相手の姿が視界から消え、相手の声が一方的に襲ってこない(留守電とかはいつ聞くか自分で選べる)ということは相手の支配を逃れるために極めて重要な要素だ。初めて一人暮らしになり、誰もいない部屋の天井を眺めた時のあの解放感は今も忘れられない。

という経験があるのだけれど、しかしね。大学進学がそういう「安全に家出する」機会の一つだったとして、また、私がたまたま親の学歴信仰を逆手に取ってそれを利用できたとして、やはりそれは「市民が関心に応じて知識を得る」場としての大学の理念から外れた大学利用法ではないかと思わなくもない。大学ってそういう若者の転機とか通過儀礼とかの意味合いを持たされないといけないものなのだろうか。私にとって大学はそういう「家出先」としての意味があり、そこへの愛着もあるのだが、これは決して大学だけが持つべき役割ではない、むしろ大学進学しなくてもこういう「家出」の機会、自分の生まれた狭いコミュニティを離れて外の世界に触れる機会が多様にある社会にすべきだ、という問題意識はずっと持っている。たかが大学に行くことで人生が大きく変わってしまうような社会はおかしい。逆に、大学で学歴をつけないと人生の選択肢が狭まり、遠くに行けなくなるような社会もおかしい。

今日の中国の受験生たち、大学受験のための勉強に励む世界中の若者たちが、それぞれ納得のいく結果を得られますように。そして望む大学に入れたなら、その場のもつ価値をいかにそこだけに閉じ込めず、社会全体に開いていくかを考えてほしい。大学に行けることはこの世界ではまだ特権で、特権を得た者が社会に対して負う最大の責任は、その特権を特権でなくしていくことである。私もその一人として、責任を果たす方法を模索し続けたい。

中国ではまだ8日ですが、日本では日付が変わってしまいましたね。今年の中国の高考は7月7日、8日でした。